人類永遠の問い - ゴーギャンの傑作が語りかける存在の意味
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
この問いを前にしたとき、あなたはどんな答えを思い浮かべるでしょうか? 人生の意味を考えたことがある人なら、一度は心の中でこうした問いかけを自分自身に投げかけたことがあるのではないでしょうか。
私が初めてこの作品と出会ったのは大学時代、美術史の授業でした。教授が巨大なスクリーンに映し出したゴーギャンの絵画は、その鮮やかな色彩と神秘的な雰囲気で私の心を捉えて離しませんでした。あれから何年経った今でも、人生の岐路に立つたびに、この作品のタイトルが頭をよぎります。
ポール・ゴーギャン(1848年-1903年)による『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は、単なる芸術作品を超えて、人類永遠の哲学的問いを視覚化した稀有な存在です。本記事では、この傑作の背景に秘められた物語、作品に込められた深遠な意味、そして知れば知るほど興味深い雑学や豆知識を紐解いていきましょう。
魂の叫びから生まれた傑作
ゴーギャンがこの作品に取り組んだのは1897年から1898年、南太平洋のタヒチ島でのことでした。当時、彼は人生の最も暗い時期を過ごしていました。
「私は生を選ぶべきか、死を選ぶべきか」
愛娘の死、健康の悪化、経済的困窮、そして彼が純粋な楽園と思い描いていたタヒチの現実との落差。これらすべてが彼の精神を追い詰めていたのです。ゴーギャンはこの作品を完成させた後、自殺を図りました。幸いにも未遂に終わりましたが、この事実からも、彼がこの絵に命を懸けていたことが伝わってきます。
横幅約3.75メートル、高さ約1.39メートルという巨大なキャンバスに、彼は自らの魂の叫びを込めました。粗い麻布を使用し、何度も描き直しながら完成させたこの作品は、現在ボストン美術館に所蔵されています。
「この作品だけは手放したくない」とゴーギャン自身が語ったほど、彼にとって特別な作品でした。彼はこれを「自分の哲学的な作品」と位置づけ、「これまでの作品すべてを超越しており、これほど優れた作品は二度と描けないだろう」とまで言い切ったのです。
美術史家の間では、ゴーギャンがこの作品を描く前に「遺書」を書いていたという事実も知られています。彼にとって、この絵は単なる美術作品ではなく、自らの人生と芸術の総決算だったのです。
パリからタヒチへ - 「原始」を求めた画家の旅
ゴーギャンがなぜタヒチにいたのか。それを理解するには、彼の人生の転機を知る必要があります。
元々株式仲買人として成功していたゴーギャンは、1880年代になると次第に絵画への情熱を抑えきれなくなります。安定した職業や家庭を捨て、芸術の道を選んだ彼は、やがて文明社会への嫌悪感を募らせていきました。
「私は野蛮人になりたい」
これは彼の有名な言葉です。近代文明の虚飾や束縛から逃れ、人間本来の純粋さを求めて、1891年、彼は南太平洋の島々へと渡ります。しかし、そこで彼を待っていたのは、すでに西洋の影響を受けて変容しつつあったタヒチの現実でした。
彼が求めた「原始」の楽園は幻想だったのです。それでも、彼はタヒチの自然や人々の中に、失われつつある純粋さを見出そうと努めました。『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は、そんな彼の苦悩と探求の集大成と言えるでしょう。
私は数年前、フランスのオルセー美術館でゴーギャンの別の作品を見たとき、彼のタヒチ時代の絵から漂う独特の雰囲気に心を奪われました。鮮やかな黄色や赤、青は、単に目を引くだけでなく、何か言葉にできない深い感情を呼び起こすのです。彼は色彩を通して、言語を超えた何かを私たちに伝えようとしていたのかもしれません。
作品を読み解く - 生と死のパノラマ
この絵画を初めて見る人は、まず「何が描かれているのか」と戸惑うかもしれません。複数の人物がさまざまなポーズで描かれ、タヒチの自然を背景に神秘的な情景が広がっています。実はこの絵には、人間の生涯という物語が右から左へと展開しているのです。
ゴーギャン自身は詳細な解説を残していませんが、美術史家たちの解釈によれば、この作品は人生の三段階を表現していると考えられます。作品を右から左へと読み進めていくと、生命の誕生から死までの旅が描かれています。
右端では、幼子が眠っています。これは生命の誕生、人生の始まりを象徴しています。「我々はどこから来たのか」という問いへの視覚的応答です。
中央部分では、果物を摘む若者や思索にふける人々など、さまざまな活動をする成人たちが描かれています。これは人生の真っ只中、「我々は何者か」という問いを体現しています。
そして左端では、老婆が死を見つめ、思いを巡らせています。その足元には白い鳥が描かれ、魂の存在や死後の世界を示唆しています。「我々はどこへ行くのか」という問いかけへの答えを暗示しているのです。
興味深いのは、作品の右上に青い偶像が描かれていることです。これはタヒチの神話に登場する創造神テ・ファアミを表していると言われています。また、左端には不思議な白と黄色の存在が描かれており、これは「死後の世界」や「来世」を象徴していると解釈されています。
画面中央の赤い地面から摘み取られる果実は「知恵の実」を連想させ、人間の行為と知識の獲得を表現していると考えられます。左側の大きな青い偶像は「彼岸」を象徴し、右側の二人の人物は「人生と死の謎」を表しているという解釈もあります。
ゴーギャンの色彩感覚も特筆すべきです。彼独特の鮮やかな原色使いは、タヒチの自然光を捉えるだけでなく、感情や精神性を直接表現する手段となっています。青、黄色、赤などの原色が象徴的に使われ、作品全体に神秘的な雰囲気を醸し出しています。
知られざるエピソードと豆知識
この傑作にまつわる興味深いエピソードやあまり知られていない事実を紹介しましょう。
タイトルの謎
実は、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というタイトルは、ゴーギャン自身が作品の中に書き込んだものではありません。彼がこの作品について友人に宛てた手紙の中で言及した言葉が、後にタイトルとして定着したのです。
彼は友人への手紙でこう書いています。「私はこの絵を『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』と呼んでいる。これは文学的なタイトルではあるが、タイトルがなければこの絵は単なる女性の裸体画となってしまう」。彼がいかにこの問いを重視していたかが伝わってきますね。
逆さま説
長年にわたり、この作品は「右から左へと読む」ものとされてきましたが、実はゴーギャン自身は「左から右へ」読むように意図していたという説もあります。彼はカタカナの「ヘ」の字の形で作品を構成し、誕生・生・死を螺旋状に描こうとしていたという解釈もあるのです。
美術史家のなかには、「作品が正しく展示されていない可能性がある」と主張する人もいます。果たして真相はどうなのでしょうか。これも、この作品の魅力のひとつである「謎」の一部と言えるでしょう。
作品の価値と運命
ゴーギャンはこの作品を60フランで売りに出しましたが、当時は評価されず、彼の死後、1901年にやっと売却されました。その後、幾多の所有者を経て、1936年にボストン美術館が3万5000ドルで購入したのです。
現在の価値に換算すると、おそらく数億ドルに相当すると言われています。もしゴーギャンが生きていたら、自分の作品がこれほどの価値を持つようになったことに、何と言っただろうかと想像せずにはいられません。
制作の秘密
ゴーギャンはこの作品を描くにあたり、粗い麻布をキャンバスとして選びました。当時、彼は経済的に困窮しており、良質のキャンバスを購入する余裕がなかったのです。また、彼は手紙の中で「下書きなしに、熱に浮かされたような状態で一気に描いた」と述べています。
しかし、X線検査の結果、実際には何度も描き直された跡があることが判明しています。彼は自らの芸術的ビジョンを実現するために、妥協を許さなかったのでしょう。
意外な色彩の秘密
ゴーギャンの鮮やかな色彩は、単に彼の美的センスだけでなく、当時の状況も反映しています。彼は経済的理由から、安価な合成顔料を使用せざるを得ませんでした。これらの顔料は時に予想外の色の変化を引き起こしましたが、彼はそれを逆に芸術的効果として取り入れたのです。
彼が使用した黄色は特に興味深く、時間とともに変色することが知られていましたが、彼はその「不安定さ」をも作品に取り込んでいました。まさに、制約の中から創造性が生まれた例と言えるでしょう。
ゴーギャンの問いかけと現代社会
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
1897年に投げかけられたこの問いは、120年以上経った現在でも私たちの心に深く響きます。むしろ、科学技術の進歩により、この問いはさらに複雑さを増しているとも言えるでしょう。
人類の起源についての科学的理解は深まりましたが、「なぜ我々はここにいるのか」という根源的な問いへの答えは、依然として私たち一人ひとりが見出さなければならないものです。AIやバイオテクノロジーの発展は「人間とは何か」という問いを、これまで以上に切実なものにしています。
そして、環境危機や核の脅威の中で「我々はどこへ行くのか」という問いは、単なる個人的な死後の問題ではなく、人類全体の未来を考える上でも避けて通れないものとなっています。
振り返れば、ゴーギャンが西洋文明から逃れタヒチに求めた「原始への回帰」は、現代人の中にもある「シンプルな生活への憧れ」に通じるものがあります。テクノロジーに囲まれた生活の中で感じる疎外感、自然との繋がりの喪失、そして真の自己を見失う不安。これらは、ゴーギャンの時代から続く人間の普遍的な悩みなのかもしれません。
私たち自身の問いかけとして
この壮大な作品を前に、私たちも自分自身に問いかけてみましょう。
「私はどこから来たのか」 - あなたのルーツ、育った環境、受けた教育、影響を受けた人々...それらはあなたをどのように形作ってきましたか?
「私は何者か」 - いまここで生きているあなたは、どんな人間ですか?何を大切にし、何を恐れ、何を愛していますか?
「私はどこへ行くのか」 - これからのあなたはどんな人間になりたいですか?残された時間で何を成し遂げたいですか?あなたの後に何を残したいですか?
これらの問いに対する答えは、一生かけて探し続けるものかもしれません。それでも、問い続けること自体に意味があるのでしょう。ゴーギャンの絵が120年以上経った今も人々の心を揺さぶるのは、彼がこれらの根源的な問いを情熱的に、そして芸術的に探求したからではないでしょうか。
昨年、私はようやくボストン美術館で実物のこの作品を見ることができました。その圧倒的な存在感と色彩の鮮やかさは、どんな図版や解説よりも雄弁に語りかけてきました。その時、隣にいた見知らぬ老婦人がつぶやいた言葉が忘れられません。
「この絵を見ると、自分の人生の意味を考えずにはいられないわね」
まさにその通りなのです。芸術の偉大さとは、時代や文化を超えて、見る者の内面に直接語りかける力にあります。ゴーギャンの問いかけは、今もこれからも、私たち一人ひとりの人生の旅路において、深い示唆を与え続けるでしょう。
そして、あなた自身はどうですか?この作品を通して、あなた自身の「どこから来たのか」「何者か」「どこへ行くのか」という問いについて、新たな洞察を得ることができましたか?
芸術の真の価値は、私たちの内面に生まれる、こうした静かな対話にあるのかもしれません。